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ヒシ型バブル2

何を書こうか思案中。

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うずらベーコン

 
好きな食べ物は何?と聞かれると、回答に困ることがあった。前から特定の食べ物に執着というか、こだわることがなかった。少し前は「山菜おこわ」と答えていたのだが、友人との食事プランにおいてもしばらく考えないと、出ないということがある。特に食べたいものはないとは言わないけれど、何でも食べられる、と、優柔不断とは違う消極的な意思決定にきっと友人たちは困惑したことがあったのは一度ではないだろう。山菜おこわは、うーんを考えを巡らしてからひねり出した答えなのだ。

ある日のこと、出かけた先でタイミングが合わなくて昼食を取り損ねていた。お腹は空いていたけれど、例に漏れずさして食べたいものも浮かばず、せっかくの遠出なのに、食べなきゃ身体がもたんな、と、食べるのは身体のためであるという義務感がじわじわと覆う。結局はチェーンのコーヒーショップにてパンを一個のみ。当然、それで身体に十分にエネルギーが満ちるわけではないのだが、それでも空腹スイッチの点灯はぴたりと止まるのである。

その日は情報を入れすぎた日で、それを察知したかパン一個ではさすがに、と、空腹スイッチはしばらくすると再点灯。もう、帰宅の途に就いていたのだがバスに揺られながら何を食べようかぼんやり考えていた。そこで浮かんだのがうずらベーコン。うずらの白肌にベーコンのドレスを巻いた串に刺さった三兄弟。それが香ばしく焼けた少しカリッとした食感のベーコンにタレもいらないベーコンの塩味とうずらにうっすらと降られた塩味だけのシンプルなうずらベーコンをたくさん食べたいと思った。

バスを降り、車に乗り換える。自宅までの道のりで焼き鳥屋はいくつかあるのだが、一軒過ぎ、一軒過ぎとしている間に、もうどうでもいいような気がしていた。暗雲だ!注文をするのに人に会うというプロセスをしたがらない暗雲の発生にとうとう、最後の焼き鳥屋を過ぎてしまう。密度の高い暗雲にうずらベーコンは遠くに行ってしまった。確かに疲れていたのだが、うずらベーコンの魅力は暗雲を吹き飛ばす北風にならなかった。

結局は自宅でお茶漬けを食べる、ということに落ち着いた。やれやれ、エネルギー補給よりも、めんどうと思う気持ちが勝ってしまったな。エネルギー出納は負に傾いたけれど、うずらベーコン、またの機会に。
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誰もいない海

 
『昨日の夜観た映画に感化されて取る物も取り敢えずキーをまわした。まだ眠る街を通り抜けていくよ。海が見たい』

気持ちの整理ができないときは秦基博を聞きたくなる。生み出すリズムを聞いているうちに、歌詞にも注目するようになってからふいに聞きたくなる瞬間が多くなったように思う。それまではBGMのひとつだったものをどうして気に入ってしまったのかと考えると、あることに気づいた。そうか、植物を使うことが多いのだ。ポプラ、向日葵、最近で言えばすみれ。自然を比喩に使ったり、または情景の片隅にあるような使い方をする。どちらかといえば、後者の使い方が好きなのだが、効果的に使う自然をときに想像し、身をゆだね、停留する気持ちを流すような時間の使い方にすっかりはまってしまい、秦基博プレイリストを作ってしまうほどだ。

あることがあってどうにか気分を変えたくて、海が見たい、と言って同僚におススメの場所がないかを聞いた。その同僚はいろんなことを知っていて(特にお出かけ場所について)、穴場の場所を教えてくれた。翌日の休みにさっそくドライブに出かけることにする。最新状態のナビにも載らないような場所に少しの不安があったけれど、手入力で位置情報を入力。よし、準備できた。ミュージックプレイヤーを接続し、出発する。

ナビは最短のルートを示し、その通りに行ったのだが、くねくねと山道である。しかも離合がしにくいような狭さ。幸い、すれ違う車もなくてドライブは順調。ああ、ここにつながるのね、と新たな発見もありながら山を抜け、海沿いの道路に出る。目的地はすぐそこであることをナビは示す。

DSC_0059[1]ナビにはない道標を目で確認し、細い路地を進み、目的地に到着。少しの期待を抱え海岸の入り口に立ってみれば、なるほど、これは期待以上だった!と、少し疲れた体を伸ばしながら、気持ちが高まった。残念だったのは曇り空だったことだけれど、誰もいない海は何をしても自由なように感じて。DSC_0057[1]砂浜に足跡をつける、波打ち際で白波を眺める、岩場を歩き、右往左往するカニと駆け引きをしたりと本当に自由。途中、雨が降ったけれど濡れてもへっちゃら。自分の意志で雨に濡れたのって、何年振りだったかな。いいね、ここ。気の合う人と来ても一人でも。ああ、釣りもできそうだな。

帰りはナビのおすすめに頼らず海沿いの道を走る。信号の少ない道路で晴れていれば日没をずっと見ていられる海側に開けた道路で、晴れていればきっといいドライブコースに違いない。また一つ、ドライブコースができる。

抱えていた気分の重さをしばらくの一人海岸は根本的に解決することにはできないけれど、一人海岸の波音と雨音は翌日の活力源には十分だった。同僚には、雨が降ったけれどよかったよ、と伝えると、晴れた日が良いって言ったじゃない、と半ば飽きられたけど、報告をして笑い話をして、また日常に戻った。
 

追憶の花たち

 
花菖蒲を見に行く移動中、「かきつばたあやめ」をふいに思い出した。かきつばた、あやめ、花菖蒲の似たり寄ったりの花たちを完璧に分別できる能力はないのだけれども、おおざっぱに太めのマッチョな花が咲くのが花菖蒲、シンプルなさっぱりとした花を咲かせるのがあやめと理解している。しばし「かきつばたあやめ」が何か考えを巡らせる。そうだった、かきつばたあやめは高笑いが特徴的な某人物のライバルだったな。主人公の名前もすごいけど、同じ花が並んだ名前もかなりのインパクトだよな。

花には少しだけ縁がある。今の職場は花とは無縁なのだけど、花の話をすれば意外!と言われるほど。肌艶の衰えが見える30を過ぎた男の口から「花を長持ちさせるコツ」が飛び出せば、関心と動揺が同居したような対応をされる。昔、花苗を植え、肥料をやり、花を咲かせるのをじっくりと待ち、見ごろに鋏を入れ、場合によっては花を長持ちをさせる処理をする。その営みに携わっていたことがあった。一朝一夕にはできない生命の営みを圧縮した思い出にできるのは、それほどに時間が経ってしまった証拠だけど、そのころの経験は生きていて、花を長持ちさせる助言ができるのは寄り道のおかげである。

DSC_00151 (1)その昔の寄り道で、忘れられない花があった。棚に管理された藤の花である。小さな藤棚だったが鮮やかな淡い青色が強烈に目を引いた。それからはいつかは藤棚を見に行きたい!と思っていたのだが、今年も見れなかったな、を繰り返していた。今年はドライブがてらに、藤の名所を訪れたのだが、花がついていたであろう花の軸が風で寂しく左右に揺れるばかり。花の命は短し、物悲し、である。代わりにポピーの群生を見たのだが、ポピーの咲き始めに藤は散るのである。また勉強になった。

DSC_0049.jpgポピーのしばらく後に出かけたのが花菖蒲であったのだが、こちらは少し時期が早く。これも計画の失敗。花咲きカレンダーを作ったらいいのかもしれない。まだ個々が咲いている時期でも、もう少しで肉厚の花弁は隣にぶつかり、群生となるのだろう。機会があればタイミングよく来ますよ、と、誓いを立てて、初夏の花巡りは終わり。
 

夕焼けポストカード

 
雨が降っている。今日は洗濯しようと思っていたのになぁ。

ここ最近、気持ちの不調和というか思い通りにいかないことが続いている。布団に包まってもう少し夢の世界へ戻る。しばしの夢の世界からからふと目覚めてみると...晴れていた!なんてことはなく。もう諦めろと言われているようだ。諦めてちょっと遅くなった朝食を用意する。トーストにスープの軽めでいいのだ。あんこがベースのジャム(?)を塗りながら、ちらりと時計を見て心と相談して予定を練る。うーん、変化が欲しいな!心を静めるためにも、気になっていた場所へ出かけることに。用意を済ませ、車に乗り込み、アクセルを踏む。

DSC_0046.jpg 絵画は詳しくなくて、作者がどんな人かも 知らないわけだけど、なんというか宣伝ポ スターに心魅かれたという単純な理由で美 術館へ。解説の経歴を読みながら並べられ た作品を見る。前にいた人には離され、後ろにいた人には抜かれ...そんなペースで見ながら直感的に好きな絵を探す。作者の経歴を読むとともに、自分の好きに訴えているか確認しながら展示を巡る。うん、花や植物と人物のモチーフ、きれいだ。

出口のグッズ販売では何枚かのポストカードを買う。そういえば部屋にあるポストカード入れはもう随分前から入れ替えていなかったなぁ。これと、これ、ああ、これもいいなぁ。これも余白が良い味だ。そんな選び方をして展示を出ると、なぜだか少し気持ちが晴れているように感じた。
DSC_0043.jpg
屋外の庭園に出る。いつの間にか雨が上がっていた。時計を見るとかなりの時間いたみたいだ。ふっと息を吐いて港を見れば夕焼けがあった。明日は晴れるらしい。
 

ver.1.5

 
車内で携帯ミュージックプレイヤーを接続すると、再生できない曲があることに気づく。それはファイル形式の事情により再生できないとのことだったんだけど、Bluetooth接続・AUX接続ならば全曲再生可能、USB接続だと限定再生可能という状況になんだか妥協できず、この機会に!と思い、ミュージックプレイヤーのリストを再構築をすることにする。CDを見ながらこれはもう聞かない、これはまた聞いてみようかな、とか審査をする。昔好きだった曲も心と対話して○×△。審査に合格、うーん保留!だと転送開始。うーん、ちょっと趣味は変わったかな、そう自覚しながら、取り込みの時間は少し時間があるので、ネットの世界に飛び込む。

その作業をしながら、ある人の長年乗りまわした自転車を変えたという古い記事を読む。自転車を掃除して送りだしたという。並べられた言葉は瑞々しく、つい最近のことのようだ。その古くも新しい言葉にふと思い出す。そうだ、自分も送りだす前日に掃除をしたな。記事と記事の間のエントリーだ。新しく迎えたことは書いても、送りだしたことは書いていなかったな。

生活に密着という意味では非常に助けてくれた。雨の日、風の日、台風の日まで。車体が少し浮くような危険な思いをしたこともあったけれど、無事に送りだしてくれた車だ。それだけでなく、感情が抑えられないときの、少し荒い運転にも付き合ってくれた。そして手放す前日、感謝の思いを込めて掃除をした。掃除しても消せやしない細かい傷は守ってくれた証。

変わったもの、変わらないもの、変わってゆくもの、いろいろある。自分の立ち位置、スタンス、感性も変わっている。その変化に寄り添うように音楽も変わっていったようだ。審査の1つ1つは大雑把なもので精査、なんてものには程遠いものだけど、昔、カーオーディオから聞こえなかった「ニューミュージック」も今の感性に合わせて自然体で聞けばいいのだと思う。
 

近未来感がくれる紅白リサイタル

 
セールスマンは言う。この車を購入するきっかけはなんですか?と。どういう選択肢があったかは詳しくは覚えていないのだけど、回答に悩んだことは覚えている。未来を感じるような車に乗りたかったんですよ、ただ、近未来感という選択肢はないですよね?

車を買うにあたって、何を重視していたかを聞きたいんだろうけど、デザインとインテリア?そうですねかっこいいですよね。安全性?そうですね必要です。運転しやすさ?そうですね前の車と比べると格段に良いです...と、こんな調子で肯定しかしない意地の悪い人みたいな状態だった。弁解するならば1回きりの短時間の試乗では、はっきりと意見を持てない、からなんだよ。どれも必要なんです、ええ。

乗り続けてみて、パブリックな場で書けないような超個人的な感想を書くと、音楽が聴けることである。セールスマンに言うとなんだそれは、と、言われそうなのだが、前の車ももちろんオーディオはあった。ただ、エンジン音に負けていたのである。エンジン音とオーディオで総じてうるさい車(改造とかはしていないんだけどね)。

今回はそれがない。あるとき、助手席に人を乗せた。ドライブミュージックを用意してくれたのだが、そのときに初めて音の広がりというか、空間を満たす音色を感じた。スピーカーから音符が出たような気がした。いや、それは本当に。彼のセンスは素晴らしく、ある一曲がそう思わせたのだ(狙ったとは思わないけど笑)。それに気づいてからはドライブに音楽は必須なのである。

さて、出かけますか、と出発準備をするときにミュージックプレイヤーは欠かせない。忘れてしまったときのショックは非常に大きくて落ち込むぐらいだ。音楽の感度は低くて、新しくプレーヤーに落とした曲がいつもあるわけではないのだけど、それでも車で音楽を聴く時間は大事なのだ。音楽に感情を静めてもらうのも、音楽で背中を押してもらうのも。
 

ビー・ア・ドライバー

 
車なんてどれも同じでしょ、乗れればいいんだよ。と、思っていたのはつい最近まで。実際のところ、移動に買い物にと、ただ生活に必要だったからである。その言葉通り、その当時乗っていた車の性能としてはそれはもう一般的なもので。ドライブを楽しむような車でもなく、高速道路の上り坂ではアクセルをべた踏みしないと登らないような車だから、自然と登坂車線へハンドルを切っていて。それでも、登坂車線に移動するような機会はそうそうないから、それで不満もなかった。しかし車検まで半年近くと迫り、10年目を迎えようかとしていた車に乗りながら、どうしようかな、と考えていた。

そんなぼんやりとした考えが一転したのはある日のCM。衝撃を受けた。このデザイン、好きかも!。買わなければいけないと思ったあたりから、不思議とアンテナの感度がぐっと上がったようで。こんな車に乗りたい、あんなことしたいと一目ぼれした車を基軸にして情報を集めた。しかし、超えるような車に出合えず。すぐに試乗して車検までの再考期間にした。

そうして夏も過ぎ、山肌の景色が変わる頃だ。思考を大きく乱す潮流の変化はなく(本当はちょっとあった)、改めて試乗と検討をした。結果的にもう一回り小さい車にしたのだが、それでも充分過ぎる性能で車に乗ることが楽しくなった。人を乗せたくもなった。

車を決めてからある事情あって旧モデル車、最近ブームを起こした軽自動車と一時的に乗ることになったのだが、乗り心地や加速、エンジンの静音が全く違う。愛着も生まれたようで、この車が生活の一部になっていることに満足しているのである。休日のお出かけが楽しくなるのはこの車のおかげである。
 

平日にも休日にも種を植える

 
仕事で疲れると複数ある休日のうち、1日は何もしないということは多くある。翌日はこれじゃいけないと自分を律して、目当てなく出かけたりするのだが、それは大体がノープラン。収穫なかったなぁ…なんて思う休日も少なくはなかった。

だが、その出かける前の休日は何もなくても大事なのだとある日気づいた。某有名人は嫌なことがあったときはどうするか?の質問に対して、外で誰かに話すとか発散するタイプの解消法ではなくて、その嫌な感情にとことん付き合う、という方法をとっているという。ああ、なるほどと感心し、自分の行動に合点がいった。無意識の付き合いがひと段落して、翌日に出かけるのだ。これに気付いたとき、自分ながらに何もしない休日の1日は無駄じゃなかったと思ったものだ。まあ、時間は無駄にしていたのだが。

その無駄な時間は多いけど、無駄じゃない日を「明日へつながる種を植える日」としよう。そうそう、平日にも少しずつ植えておけば、無駄な時間は少なくなってもっといい休日にできるはず。ブログもそう。種を蒔けるうちに蒔いておけば、記事を自分なりに成熟させることだってできるかもしれない。枯れることもあるだろうけど。気づいてしまえば、対策はとりやすいものだ。
 

いつの間にか啓蒙活動

 
文章の書き出しはとても重要である。報告書は、一目して何を書いているか理解できるわかりすさが大事なんだそう。そう教わったわけであるが、一方でこのブログ、新規投稿には真っ白な画面をぼんやり見つめては何も書けなくて、数十分経過させているのである。無意味に「記事を下書き保存しました」だけが空しく更新されるわけだが、要するに苦手なのである。ついには何も書けないしもう止めた、または少し書いて止め、下書きのまま保存し結局表に出さないことも履歴を見返すと多々ある。ブログは報告書の場ではないし、自由な場で極端なことを言えば分かりやすさを全排除できる場でもあるのだが、それでもブログを書くということに対してモヤモヤとした何かがずっとあった。

その点、twitterは140文字の制約の中で省略して書けるから楽であった。ただ、自身の核となるような部分は書きづらい。以前、そのことで失敗したことがあるからではあるのだけれど、それを除外しても書きやすさという意味では他のツールと比べて突出して優れているように思う。また、話し言葉で通じるツールだから基本的に独り言になってしまってもいい、というのが自分にとっては最適だったんだろう。

ブログは書き手によって自由な形式と表現ができる場所なのだけれでも、いつの間にか書き手の自由ということに捕らわれて恐怖とか躊躇が身につき、書くのめんどくさくいになったんだろうな、とは思う。まさしく、めんどくさいやつである。生み出す言葉が自身の気持ちと同じか、また言いたいことはどの部分か、そこに至るまでが適切に記されているかを擦り合わせていくうちに本当に気持ちがすり減ってしまっていたのだろう。本来、こういう場所は向いていかったんだろうな、と今更思う。

モヤモヤが続いていて、今となって前に書きかけたものを書き直しをしたわけであるが、きっかけとしてはなんだったろうかと考えた。わかったことは知ってもらいたいだった。ずいぶん厚かましいということになるのだけれども、記事の書き直しが繰り返されていることを考えると気づかなかっただけで昔からあったはずなのだ。気づかなかった、というのは可笑しな話ではあるが、実際それだけ鈍かったと認めるものである。ブログを書くとはどういうことか、から転じて伝えたい気持ちとは何なのか、までつながるまでの期間は少し長かったけど、今後少しずつ出していけたらと思う。
 

ヲトメ、あふるる

 
何の変哲もないメモ書きにこう言われるのである。
「ヒシさんの文字は乙女チックですよね。」

何か意味を込めたメモでもなく、ましてやイラストを入れたわけでもないが、言った本人は直感的に何かを感じたからこそ、ごく自然に冒頭の言葉を言い放ったのである。笑顔で、無邪気に言った様に、僕は内心焦り、「今度からミミズが這ったような字を書きますね」と、とっさに返した。だが、その後、ミミズが這ったような文字とはどんなものかを考えることになり、少しミミズ文字を練習したものの、書くスピードなど考えてあまりの効率の悪さに気付く。よって、今後もにじみ出るヲトメチックは隠さずに(隠せずに)、書き続けていくわけである。

文面から溢れるヲトメチックがあるとして手紙を書くときは、ごきげんように始まり、かしこで終わる書き方をしたほうが、総合美を考えると不自然さがないのである。しかし、「ごきげんよう。庭のひまわりがうだるような暑さが続いておりますが...(以下略)」などと書くと、当たり前だが見た目と符合せず、不自然すぎるヲトメとなるのである。いわば、笑点でおさげのカツラを被ったお師匠さん程度のヲトメ模様となり、失笑は必至。またなによりもヲトメのメッキはすぐに剥がさないと、自分が窒息してしまうのである。

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時節柄、お世話になった人へ手紙を書くつもりである。ヲトメチックは込めないつもりであるが、あふるるヲトメは伝わってしまうのだろうか。
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ヒシ

Author:ヒシ
花を追っかけて。食物を追っかけて。移り気のある男でございます。